播州全域に一族が居城用、防衛用に築き上げた山城が存在したようだが、その中でも3つの城が現在国の史跡として指定されている。
LINK【姫路市】置塩城跡レポはこちら
姫路・置塩城跡、相生・感状山城跡、そして上郡町にある「白旗城跡」だ。
LINK【相生市】感状山城跡レポはこちら
史跡・赤松氏城跡散歩の第三弾として、今回は白旗城跡の歴史、登山風景をお伝えしたい。
特に、城主・赤松円心が足利尊氏を救い室町幕府開設に大きく貢献した、”白旗城50日間の戦い” に着目しながら、いかにこの城が凄い場所なのかを解説していく。
個人的にも3つの史跡指定・赤松城跡の中で、最もお気に入りの場所である。
現在も実在する子孫の方の考察にも触れながら、その戦いの様子を共に妄想しよう。
白旗城跡
〒678-1273 兵庫県赤穂郡上郡町赤松
無料駐車場:あり(10台位が駐車可能)
お手洗い:登山口前にあり
白旗城跡の登山口は、西の赤松側と東の野桑側の2箇所存在する。
今回は一般的に紹介されている赤松側をご紹介したい。
千種川沿い373号線から「白旗城跡」の大きな看板が東側に見えると、それが登山道入口の印となる。
駐車場はその看板の隣にある小さな橋を渡らず、左手にある「P」のマーク付近に10台程が駐車可能だ。
現地までは道もさほど狭くなく、車幅のある私の車でも難なく通行出来た。
公共交通機関では「智頭急行・河野原円心駅」が最寄駅で、そちらからも看板を目的に歩いてくると入口へ到着出来るだろう。
歴史的背景
白旗城には日本史上でも有名な、室町幕府初代将軍・足利尊氏が関係している。
冒頭で「城主・赤松円心が足利尊氏を救い室町幕府開設に … 」と触れたが、その話題の前に当時の歴史的背景をご説明したい。
室町幕府以前の鎌倉幕府後期、権力は北条一門に集中していた。
当時、鎌倉幕府を震撼させた元寇(大国・元による2度の襲来)により、多くの御家人(武家)が出兵などによって経済的負担を背負わされていた。
本来、*御恩と奉公の概念から、奉公した武家には恩賞が与えられるはずだったが、元寇があくまで自国の領土を守るだけの防衛戦であり、朝廷が新たに獲得したものがなかったことから、恩賞が与えられることはなかったようだ。
*御恩と奉公:主人が従者へ与えた利益(領地)を御恩といい、従者が主人へ与えた利益(主人のために戦う)を奉公。
肖像画:源頼朝(鎌倉幕府初代征夷大将軍)
そのため、御家人達の幕府への不満があちこちで聞かれるようになっていた。
時を同じくして京都の朝廷も、後嵯峨天皇以降「持明院統」と「大覚寺統」の2派に割れてしまい、両派が交互に天皇に即位する「両統迭立」が取られていた。
しかし、両党迭立は幕府が決定した取り決めで、これに不満を持っていたのが後醍醐天皇だった。
後醍醐天皇は実際に倒幕を掲げ挙兵し、幕府の手を焼かせるのだった。
肖像画:後醍醐天皇
そこで登場するのが、足利高氏(尊氏)。足利高氏の祖先は源氏であり、当時源氏は実権を北条氏に奪われていたものの、高氏は北条氏と婚姻関係を結び、幕府内で地位を保っていた。
その高氏が後醍醐天皇による反乱(元弘の乱)の鎮圧を幕府から命じられ、さらにその後起こった、近畿各地の武将による倒幕の挙兵(赤松円心もこの時挙兵)の鎮圧にも派兵させられる。
しかし、この道中で足利高氏は倒幕を決意し、朝廷のある京都に着くと、六波羅探題(京都の政情を監視し、治安を守るために幕府が設置した機関)を攻め滅ぼした。
幕府のある鎌倉では、同じく源氏を祖先に持つ新田義貞が幕府軍を滅ぼし、これにて鎌倉幕府は滅亡するのだった。
鎌倉幕府が滅亡すると、元弘の乱以降幽閉されたり、そこから脱出したりしていた後醍醐天皇が京都に戻り、自らが政務をはかる “建武の新政” が始まる。
しかし、この建武の新政では武士を冷遇する政策が取られ、北条一門のみが恩恵を受ける鎌倉幕府に不満を抱いていた武家達は、再度不遇の時を味わうことになる。
その典型として挙げられるのが、播磨国で挙兵し六波羅探題の攻め滅ぼしに大きく貢献した、「赤松円心」だった。
その活躍にも関わらず、政変に巻き込まれ恩賞は与えられることなく、不遇の時を過ごし最終的には佐用へと帰るのだった。
白旗城50日の戦い
肖像画:足利尊氏
全国に建武の新政への不満が募る中、ついに足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、関東の軍勢を束ね、天皇のいる京都へと攻め込む。
しかし、後醍醐天皇に足利尊氏討伐を命じられた、新田義貞や楠木正成の大群が京都に進軍。敗れた尊氏は西へと敗走することになる。
その道中、播磨国で出会ったのが我らが赤松円心で、後醍醐天皇の前の天皇・光厳天皇の院宣を賜るよう進言される。
勢力回復のために九州へと逃げ延び、再び九州の豪族の力を得た足利尊氏は、勢力回復後再び京都を目指し東進するのだった。
そして、その九州への逃げ延びに大きな役割を担ったのが、赤松円心率いる播磨国の軍勢と白旗城だったのだ。
当時、新田義貞軍6万の侵攻が目前に迫る中、赤松円心軍はわずか2000の軍勢で白旗城に籠城する形で、新田義貞軍を50日余り釘付けさせ、足利尊氏が西へ逃げ延びる時間を稼いだのだった。
書物によれば、赤松円心は現在の姫路市書写山を境とする第一防衛戦、たつの市揖保川沿いに城山城を築き第二防衛戦、そして白旗城を中心にした千種川沿いを第三防衛戦として構え、新田義貞軍に徹底して立ち向かったのだった。
岩盤の上に立つ白旗城では、石などの武器の調達が容易で、山の上から岩を落とすなどの戦法を取り、籠城しながらも敵を引き付けて時間を稼いでいたようだ。
また周辺の山城(相生にある感状山城やたつのの城山城)に息子則祐(三男)を配置し、ともに連携を取りながら6万もの軍勢の足止めを図った。
少人数であるにも関わらず、大軍勢を相手にしても落城することがなかったことから、「落ちない城」として白旗城の伝説の戦いが語り継がれている。
渓谷の中の散歩
そんな日本史的にも大役を果たした白旗城。
近年、西播磨ツーリズム振興協議会さんの「西播磨山城復活プロジェクト」活動のおかげで、播州地域でもあらためてその価値に気付き訪れる方々が増えているようだ。
登山道へと入る入口にはいくつもの看板が立てられ、白旗城や赤松円心にまつわる歴史が詳しく説明されている。
新たに設置された立派なゲートをくぐると、まず見えてくるのが川のせせらぐ渓谷際を歩く遊歩道だ。
川の流れる音が森中に響き渡り、早くも恍惚状態になること間違いなしだ。
ここから登山道の始まる地点は、整備された一本道を歩いて行く。
白旗城頂上まではかなり足元が悪いので、登山に自信のない方はこの平地を歩き、周辺にある供養塔や寺跡などを訪れるだけでも、きっとこの界隈の雰囲気を味わうことが出来るだろう。
絵馬の自動販売
しばらくすると、お手洗い小屋のある場所へと辿り着く。
この場所が登山口になり、登山者用にステッキが数多く用意されている。
お手洗いの隣には、駅にあるロッカーのようなものが … 。
こちらで絵馬を購入し(¥500)、願いを書いて”落ちない城” の頂上に掛けに行くのだ。
毎年地元や周辺都市から多くの学生が来られるようだ。こういった風景を見るのも、心が本当に和む。
山が生きている …
登山口からの道は、まず坂道が続く。
林道を横目に、木漏れ日の差す緑の空間を歩き進むが、風景のみならず空気も澄んでいて疲れが全く気にならない気分だ。
さらに進むと、足元が石や岩で散乱しているのが分かる。
そしてその際たるものが、道中現れる「谷落としの岩」と呼ばれる恐ろしいエリアだ。
登ってくる新田軍を、城の頂上から岩を無数に落とし、足止めを図ったとされる場所である。
しかし、その恐ろしい言い伝えとは裏腹に、この谷落としの岩と呼ばれる場所が、白旗城登山で、最も美しい森林エリアであることはあまり知られていない。
開けた視界に広がるおびただしい数の岩々。
小鳥の鳴く声が森中に響き渡り、まるで山が生きているように感じてしまう素晴らしい地点だ。
続く登山
本丸のある頂上までは、新たに立てられた進路を示す標識のおかげで、ルートを外れることはないだろう。
登っても登ってもあと0.8km、あと0.6km と進んでいないように感じるが、やがて空の明かりが差す道へと到達する。
ちなみに櫛橋丸跡というものを初めて聞いたが、噂では家臣であった櫛橋氏からとって、この場所をそう名付けたという。
しかしそれは言い伝えでもあるので、本当の所は誰にも分からないようである。
頂上
白旗城跡は櫛橋丸跡を抜けた先にある、二の丸から城跡エリアは始まる。
大変広い空間で、城の入口部分にあたるこの場所は、重要な役割をになったに違いない。
そして、空が開ける頂上部分には、この城の本丸がある。
右手には絵馬が掛けられる場所が設けられており、たくさんの学生が願いを絵馬に書いていた。
この場所からは、近くにある相生・感状山城や他の遠くの山々も見渡すことができ、ここから赤松円心は息子を見守ったり、連携を図っていたのかもしれない。
これまで訪れた2つの史跡(置塩城跡、感状山城跡)とは異なり、白旗城跡は頂上に着いて以降のルートが非常にシンプルで、二の丸、本丸、三の丸の位置に迷うことがないと感じた。
こんな妄想が止まらないくらい、ロマンを感じてしまう場所だ。
子孫の方のお言葉
今年の頭から、播州を治めた赤松氏城跡への訪問を始めたが、その動画がキッカケで、赤松氏の子孫である Akamatsu Noritaka さんとメッセージのやりとりをさせて頂いている。
これまで海外でずっとご活躍されてきた方だが、播州地域の歴史や城跡に大変詳しく、私も色々と学ばせて頂いている。
Akamatsu さんは白旗城の戦いに関して、
恐らく赤松円心はあの湧水の豊富さでこの白旗山を籠城戦用の城にしたのではないでしょうか。この山城に何千の兵が立て篭っていたかは存じませんが、播州鬼散歩さんも想像されるように、赤松軍全体は感状山や苔縄などの周りの山々にもいたのではないでしょうか。赤松軍の戦い方は新田軍を白旗山に誘い込むようなものだったと理解しています。そして、新田軍が白旗城を総攻撃しようとしたら背後から襲撃したり、新田義貞の首を目がけて新田の本陣に夜襲をかけたり。もちろん兵力では新田軍には敵いませんでしたが、円心の戦は負けないだけでなく、新田義貞の全軍を播磨に引きつけ続ける必要があったと思います。1万で赤松軍と対峙だけして残りの5万の兵を九州の足利討伐に向けられたらそれは円心の負けでしたから。そういう戦い方は播磨の武士団が一致団結している事に加えて、山々の間で狼煙などを使っての緻密な意思疎通が必要だったのではないでしょうか。
大変深い考察で、このコメント自体が歴史小説のように私は感じてしまった。
確かに、新田軍が足利尊氏捕獲を最優先していたなら、軍を分けその討伐へと西へ大群を向かわせていただろう。
そして、恐らく新田義貞もそれは分かっていたはず。
しかし、そうさせない “何か” が赤松円心の戦略には存在したのだろう。
一体その “何か” とは何なのだろうか … 。
私は今日もそのことについて考え続けている … 。
白旗城跡の現地の様子については、映像にも残しているのでよろしければご覧下さい。
コメントなどもいただけると凄く嬉しいです。
LINK【YouTube】播州鬼散歩が歩く、播州地域の美しい景勝地