前回、佐用町にある「佐用(福原)城跡」と呼ばれる場所を訪れた。

戦国時代に落城した、非常に小さな城跡ではあったが、大木に包まれた厳かな雰囲気漂う場所だった。

LINK【播州の穴場城跡】兵庫県佐用町・佐用(福原)城跡ぶらり

そして、その佐用城跡を語る上で外せないのが、本日ご紹介する同町上月地区にある「上月城跡」だ。

戦国時代、最も激戦となった同城の戦いは、上月城の戦い、上月合戦として知られている。

戦国の人気軍師・黒田官兵衛もその戦いに深く関与し、有力者達に翻弄された人々の運命(悲劇)を辿っていく。



 上月城跡

〒679-5523 兵庫県佐用郡佐用町上月373​​​​
無料駐車場:あり(上月歴史資料館と併用)
お手洗い:なし

上月城跡は上月歴史資料館と呼ばれる施設の、真向かいに位置する。

駐車場は同施設の広大なパーキングスペースを併用することができ、大変ありがたい。

373号線からやや狭い道を通って現地へと着くが、交通量が少ないため車が通れない等の問題は起こらないだろう。

また、城跡までを記す道標が大通りからあちこちに立てられているので、道に迷うこともないことを保証する。



 歴史

上月城跡の山道を登る前に是非行っていただきたいのが、この場所に継いての歴史の復習。

LINK【特設ページ】播州地域一覧

そう、上月城は “上月城の戦い”、”上月合戦” などで知られる通り、大変な激戦・悲劇のあった地。

それについて語り出すと2時間くらい必要になるので、現地で説明されているものを文字におこしてみた。

上月城の沿革と攻防

上月城は、鎌倉時代末期(1300年代)に、上月次郎景盛(宇野播磨守入道山田則景の息)が、太平山(樫山)に初めて築いたと伝えられている。
上月氏は景盛、盛忠、義景、景満と続くが、そのいずれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神山に移したと思われる。これが現在の上月城跡で、中世山城の様態をよく残している。
赤松氏は、播磨、備前、美作三カ国の守護など大きな勢力を持っていたが、嘉吉の乱(1441年)で総領家が没落することになり、播磨も山名氏の支配する所となる。その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を回復するが、山名、赤松、尼子等が攻防を繰返すこととなる。
天性五年(1577年)織田信長は毛利氏攻めの為、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利に与した佐用の福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き一万五千の軍勢で上月城を包囲し、救護に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、十二月三日遂に上月城は落城、政範は自刃して果てた。秀吉は、城中将士の首を悉く跳ねた上、見せしめの為、城中の女子子供二百人を串刺と磔にして備前美作播磨国境付近にさらした。
秀吉はこの後、上月城を尼子勝久、山中鹿助に守らしめた。上月城に入った尼子氏は一時、宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は之を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城したとされる。景貞は、敗退中櫛田の山中で自刃したと伝えられる。
再び、尼子勝久、山中鹿助は上月城に入ったが、毛利軍は山陰、山陽の両道より三万の軍勢を以て、天正六年(1578年)四月十八日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救護の為、高倉山に陣を進めたが、三木城攻略の為、六月二十六日高倉山より兵を引いた。この為、上月城は孤立し遂に七月五日勝久は毛利氏に降伏し開城自刃した。山中鹿助は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、高梁川の合いの渡しで惨殺され、その果敢な生涯を終えた。
この天正年間の攻防が上月合戦と呼ばれるもので、上月城はその後、廃城となり今日に至っている。文政八年(1825年)赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義章が二五〇回忌を営み慰霊碑を建立したものが山上に残されている。

佐用町観光協会
上月歴史研究会



上月城と黒田官兵衛

1577(天正五)年、天下統一を目指す織田信長勢は、西国の勇将毛利氏と対立していた。羽柴秀吉を大将とする織田勢は黒田官兵衛などの尽力もあって、播磨をほぼ手中に治めつつあった。播磨、備前、作州の三国に接する要所を治める上月城主(城主名は赤松政範・「赤松」七条・上月十郎「景貞」など諸説ある)は毛利に与していたため、同年十一月、秀吉率いる織田勢の矛先は佐用の地へと向かうことになった。
佐用に攻め入った秀吉は、まず黒田官兵衛・竹中半兵衛らに、上月城主に従う福原則尚(助就とする書もある)が守る福原城(佐用城)への攻撃を命じ、壮絶な戦いの末、福原城は多くの犠牲者を出して落城する。
勢いに乗る織田勢は、次に上月城への攻撃を開始する。後の黒田家の記録「黒田家譜」によると、この戦いでは官兵衛が先人を務めるが、毛利方の宇喜多直家率いる援軍三千を得た上月側が攻勢、官兵衛の隊も後日、山中鹿介をはじめとする尼子勢の援軍を得て両軍の攻防が続く。以後、三ヶ月に及ぶ籠城戦を迎えるが、城中の謀反者により城主が惨殺されたとも伝えられる。「信長公記」や秀吉自身の文書によると城内の家臣が降伏を申し出たが、秀吉はこれを許さず、十二月三日の総攻撃によりついに上月城は落城する。すべての城兵は斬首、また城内にいた二百余人のうち女性は磔、子どもは串刺しにされ国境境に晒されるという凄惨な結末を迎えたと伝えられる。
上月城主の妻は、黒田官兵衛の妻・光(幸圓)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟であった。合戦では、先陣として落城の様子を間近に見た官兵衛の苦悩は想像を絶する。後年、上月城主の妻の墓は九州・福岡に実在することから戦いの合間に縁者により救い出されたものと思われる。
その後、上月城には山陰の名族・甘子勝久、山中鹿介らの尼子勢が入るが翌年四月、三万にも及ぶ毛利の大群に攻められ城は包囲される。援軍に駆けつけた羽柴秀吉、荒木村重ら一万の織田勢は高倉山に陣を張り、対峙するも付け入ることもできず、時を同じくして反旗を翻した別所長治を打つため播州・三木城へと向かうこととなる。織田勢の撤退により、見捨てられた上月城は天正六年七月に落城する。信長と秀吉、西国の覇者毛利氏とにはさまレ、歴史の波に翻弄された上月城は、尼子氏の最期と共に歴史の表舞台に再び現れることはなかった。

佐用町観光協会

写真/如水居士(黒田官兵衛)画像、崇福寺蔵

佐用町観光協会さんが非常に分かりやすく、上月城にまつわる出来事を要約してくれているので、私が付け加えられることは特にない。が、少しだけ追記を。

私が普段やりとりさせていただいている、赤松氏の現子孫である Akamatsu Noritaka さんによると、羽柴秀吉軍と戦って敗れた上月城主・赤松政範​​は、赤松七条家の当主で七条家は総領家に継ぐ中心一族だったようだ。

Akamatsu さんは一族の歴史を深く調べられている方だが、Akamatsu さんにも上月合戦に関して分からないことがあると言う。

私がよく分からないのは、総領家が秀吉に付いた一方で七条家が徹底抗戦し、しかも秀吉がその七条家一族郎党を女子供を含めて皆殺しにするという残虐な事をした事です。諸々の解釈や推察を見聞きしましたが、完全に納得のいく説明を聞いたことがありません。残念ながら、当時の赤松氏は分裂し弱体化していたようです。

浅学の私は、総領家と七条家との間に考え方の違いや、覇権争いの用なものがあったのか?と昼ドラ的な視点で考えを巡らせてしまうが、実際のところはいまだ分かっていないようだ。



 20分の散歩

凄まじい歴史背景を持つことを理解した後は、いよいよ城跡への登山となる。

上月城跡の登山口は、駐車場の真向かいにあり、比較的整備された遊歩道を歩くことになる。

途中から山道に変わるものの、傾斜は緩やかで、一般的な登山道と比べればかなりイージーなハイキングになるだろう。

むしろここでは、春先から秋までの緑溢れる景色を楽しんでいただきたい。

途中設置されたベンチからは、佐用町の村の風景を見ながら休憩することが出来る。

短時間の登山であるからこそ、気軽に上月城跡へ立ち寄れる利点を持ち合わせている(と思うようにしよう)。



 本丸跡

上月城跡の頂上へ上がると、広い本丸が現れる。

そしてまず見えて来るのが、赤松政範や戦死者を供養する250回忌の供養碑。

凄惨な最期を遂げた人々が、安らかに眠られるよう立てられたのだろう。

本丸周囲は、堀切や曲輪などが確認出来たが、通常あるような二の丸、三の丸といった場所については、触れられていなかった。



しかし、縦長の広い平面がいくつか本丸を囲んでいたので、これらがその役割を果たしていたのかもしれない。

この時代の城は低山に構えられることが多かったようで、これまで訪れた規模の大きな山城とは色々な点で異なる部分が多い。

また、山頂からは佐用町が誇る雲突城・利神城跡も見えるようで、それらの山々を見渡す景観は本当に素晴らしかった。

前回の記事でお伝えした佐用城跡、そして今回の上月城跡の様子は動画にまとめてあるので、よろしければご視聴下さい。