今回の舞台は、佐用町にある「佐用(福原)城跡」と呼ばれる場所を訪れた。
佐用町で有名な城跡と言えば、平福地区の利神城跡や上月合戦で有名な上月城跡などがある。
今回訪れた佐用城跡は、その上月城跡と深く関係しており、播州の歴史を探る上では訪問必至な場所として知られている。
佐用(福原)城跡
〒679-5301 兵庫県佐用郡佐用町佐用
無料駐車場:なし(城跡北にある佐用川沿いに駐車スペース P あり)
お手洗い:なし
佐用(福原)城跡は 、JR 佐用駅から佐用川を渡り南西へ行った村の中に存在する。
現地周辺は道も狭く駐車スペースはない。
そこから現地へは徒歩5分ほどで、道路上には城跡への道標が立てられている。
LINK【相生市】感状山城跡登山ガイド
村の中の大木群
道標の通り村の中へ入って行くと、あちこちに農作物を栽培する田畑が現れる。
古き良き日本風景が見られ、小旅行をしている気分に浸る。
しばらく道なりを歩いていると、右手に大木に包まれた社殿のような建物が見えてきた。
一瞬神社のように見えるが、「今向かっているのは城跡だよな?」と自問自答しつつ、その大木の方へと進んでみる。
現在の佐用(福原)城跡
大木の下に着くと、すぐに石段の階段が現れ、上がった先にはやはり神社があった。
佐用神社 …?
しかし、ここが現在の佐用(福原)城跡だということを、社殿前の説明を見て私は気付く。
社殿前にある説明には、
佐用城(福原城)
■ 中世に築かれた代表的な「平山城」で、 南面に川、後背に山の「城堅固」の立地で、空掘、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめている。
元弘3年(1331)4月28日、淀の久我畷(くがなわて)の戦いに置いて鎌倉方の総大将名越尾張守高家(なごえおわりのかみたかいえ)をただ一箭に討ち取った佐用兵庫介範家(さようひょうごのすけのりいえ)の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆
のうちの福原氏がこの城を継いだので、福原城とも言われている。
戦国時代末期、東西の精力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していたが、天正5年(1577)11月、上方勢の羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。
後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚(ふくはらとうまのじょうのりなお)の首級を祀るため城跡に一社が造営され、「福原霊社(俗に頭様)」として今に広く崇敬されている。
とある。
規模こそ小さいなれど、大木の緑に四方が囲まれ、言葉にならないほどの居心地の良さと、かつては地域を守る主要拠点であった “厳かさ” のようなものを感じた。
城跡
佐用城跡はこれまで訪問してきた白旗城跡や置塩城跡とは違い、赤松氏城跡の中でも最も低い場所にあるため、登山も楽しみたい人々にとっては物足りないかもしれない。
しかし、土塁や曲輪なども確認出来るため、歴史や城跡を巡りたい人にとっては外せない場所だろう。
次にレポートする上月城跡の歴史にもこちらの城跡が深く関係するので、この場所を思い浮かべながら次の上月城跡の回をお読みいただければ幸いである。
本当に歴史を学びながらの散歩は楽しい。
現地の様子は動画にも残してあるので、よろしければご視聴下さい。
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